大阪地方裁判所 平成10年(ワ)5784号 判決 1999年1月22日
原告
小野寺文司
右訴訟代理人弁護士
山田紘一郎
被告
センメイ商事株式会社
右代表者代表取締役
丸山幸明
右訴訟代理人弁護士
佐野喜洋
主文
一 被告は、原告に対し、二〇三万三二四〇円及びこれに対する平成一〇年五月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを六分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決の第一項は、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、二四五万三二四〇円及び内二二三万三二四〇円に対する平成一〇年五月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、被告の従業員であった原告が、被告に対し、退職金の支払を求めるとともに、被告が原告に退職を強要したうえ退職金の支払を拒否したことが不法行為に該当するとして、損害賠償を求めた事案である。
一 当事者間に争いのない事実
1 被告は、設計、製図及び複写用紙の販売を業とする会社である。
原告は、昭和五二年六月被告に営業社員として雇用され、その後営業部長となったが、平成七年二月、内勤業務を統括する営業総務部長に担当替えになり、役職手当が約五〇パーセントカットされ、定期昇給も停止された。
なお、原告は、平成六年一一月ころ腎臓病により入院し、平成七年二月に退院したが、その後は週三回の腎臓透析を受けている。
2 原告は、平成九年一二月被告を退職したが、退職に際し、被告は、原告に対し、総額四三四万三九〇〇円の退職金を支払うこと、うち二三一万〇六六〇円は大阪商工会議所共済組合(以下「商工会議所」という)より平成一〇年一月末日までに直接支払うこと、うち二〇三万三二四〇円は同年四月末日限り被告から支払うことをそれぞれ約した。
3 しかしながら、被告は、商工会議所を通じ右二三一万〇六六〇円は支払ったものの、平成一〇年四月末日が経過しても、二〇三万三二四〇円を支払わない。
二 争点
1 被告は、原告の退職金のうち、二〇三万三二四〇円の支払を拒絶することができるか。
(一) 被告の主張
被告の退職金規則(以下「本件退職金規則」という)の第七条には、退職後会社に不利益な行為があることが発見された者には、退職金を支給しないか、又は減額することがある旨規定されている(以下「本件減額条項」という)。また、その旨は、退職に際し原告に説明している。
原告の退職後、原告の在職中及び退職後の以下のような行為が判明したが、これは、労働契約上当然に導かれる競合避止義務に違反する行為であり、本件減額条項に該当することから、被告は、原告の退職金を、二三一万〇六六〇円に減額したのであり、未払の退職金は存在しない。
(1) 原告は、被告のもと従業員で退職後被告と同業種の業務を営んでいた永島克祥(以下「永長」という)に対し積極的に働きかけ、同人を代表者とする被告の競合会社である有限会社ミヤビ(以下「ミヤビ」という)を設立し、退職後同社の顧問に就任した。そして、原告は、在職中に得た被告の取引先に対する納入価格に関する情報を持ち出し、被告の取引先数社に対し、その納入価格より低い価格でミヤビが納入すると申し入れて別紙一覧表記載の被告の取引先を奪い、被告に一か月当たり少なくとも九八万二〇〇〇円の損害を与えるとともに、その信用を毀損した。
(2) 原告は、被告の仕入先であったオストリッチ製作所大阪営業所(以下「オストリッチ」という)に働きかけ、同社よりミヤビが仕入れることができるよう画策した。
(3) 原告は、ミヤビに入社させるため、被告の従業員であった塩田浩二課長(以下「塩田」という)、山本及び湯川に働きかけ、同人らを退社させた。なお、塩田は被告を退職後、平成一〇年六月ころまでミヤビに在職した。
(二) 原告の主張
(1) 本件退職金規則を含む被告の就業規則は、従業員の同意を得ていないばかりか労働基準監督署への届出をしておらず、無効である。また、仮にそのようにいえないとしても、本件減額条項は、従業員の退職に当たっての自由を不当に制限するもので、無効と解すべきである。
なお、従業員が労働契約上当然に競業避止義務を負うとはいえない。
(2) 原告が永長にミヤビの設立を働きかけた事実はなく、原告が退社したことを知った永長が原告に連絡してきたため、相談に乗ったことがあるだけである。
また、原告は、原告が退社したことを知った被告の取引先担当者から見積もりを入れてほしいと頼まれ、ミヤビを紹介しただけである。
なお、原告が被告の納入価格に関する情報を持ち出したことはないが、この業界に三〇年もいる原告は、現在の取引価格がどれくらいであるかは頭に入っている。
(3) オストリッチが被告との取引を解消してミヤビと取引するに至ったのは、原告の永年の友人であったオストリッチの大阪営業所長が、原告の退職の経緯について憤慨し、被告との取引を解消したい旨申し出たので、原告がミヤビを紹介したためであり、何ら原告の不当な勧誘に基づくものではない。
(4) 塩田、山本及び湯川の退職は、同人らが被告に嫌気がさして自主的に退職したものであり、原告が働きかけたのではない。
2 被告が原告に退職を強要した事実があるか。また、退職強要及び退職金の支払拒絶が不法行為に該当するか。
(一) 原告の主張
(1) 被告代表者丸山幸明(以下「丸山」という)は、平成九年ころ、原告に対し、「君は給料が高すぎる、無駄な人材だ。一二月までに退職してくれれば会社都合による退職として退職金を出すが、会社に残るなら給料は半額にし、退職金も出さない。どちらかを選択しろ」と毎日のように迫り、原告を退職に追い込んだうえ、約束した退職金のうち二〇三万三二四〇円の支払を理由もなく拒否した。原告は、これにより退職後の療養費や生活費に充てることを予定していた収入が得られないうえ、新規業務の開始にも支障が出ているのであって、これは、不法行為に該当する。
(2) 被告の右不法行為によって原告が被った精神的苦痛を慰謝するための慰謝料は、二〇万円が相当であり、また、弁護士費用は、本訴請求額の一割である二二万円が相当である。
(二) 被告の主張
丸山は、原告が週三日の午後は透析のため勤務できない状況であったことから、平成九年八月ないし一二月ころ、原告に対し、「今のままの給料というわけにはいかない。どれくらいの給料を望むのか考えて返事が欲しい」と言ったところ、原告が、今のままの給料で退職する方が雇用保険上も有利なので退職したい旨申し出たのであって、被告が原告を退職に追い込んだものではない。
また、退職金の一部を支払わなかったのは、争点1について主張したとおり、正当な理由に基づくものである。
第三争点に対する当裁判所の判断
一 争点1について
1 まず、本件減額条項の効力について検討する。
退職金は、その額及び支給基準が就業規則等により定められている場合であっても、功労報償的性格を全く否定することはできないから、在職中あるいは退職後退職金の支給を受けるまでの間に、当該従業員にそれまでの功労を抹消あるいは減殺するような背信的な事由が生じた場合には、退職金の額を減額し、あるいはこれを支給しないものとする旨の規定を置くことも許されると解される。したがって、本件減額条項も、右のような限定解釈を加える限りにおいて、有効と解すべきである。
なお、原告は、本件退職金規則そのものが効力を有しない旨主張するが、就業規則は、仮にこれが労基法義務付けられている方法による周知及び届出を欠いたからといって、また、その存在を原告が知らなかったからといって、直ちにその効力が否定されるものではないから、原告の主張は理由がない。
2 以上の見地からすると、本件では、原告が、退職後、退職金のほぼ半額を減ずることが正当化されるほどに在職中の功労を減殺するような背信的行為を行ったといえる場合に限り、被告は、残余の退職金の支払を拒絶することができると解される。
この点に関し、被告は、原告は、労働契約から当然導かれる義務として、競業避止義務を負う旨主張する。しかしながら、労働者は、経済活動の自由を有するのであるから、労働契約上退職後の競業を禁止する旨の特約がある場合を除き(もっとも、その場合でも、いかなる競業禁止特約も有効と解すべきではない)、原則として、退職後に従前の使用者と競業する内容の営業を行うことも許されると解される。そして、その場合、従前の使用者の取引先に対して営業活動を行うことも禁止されるものではない。
もっとも、経済活動の自由といえどもこれを濫用することは許されるものではないから、労働者は、あくまで社会的にみて相当であるといえるような態様で競業的行為を行うべきであり、労働者が、退職後、社会的相当性を逸脱する不当な手段によって競業的行為を行い、これによって使用者が重大な損害を被ったような場合には、右行為が使用者に対する不法行為又は債務不履行を構成したり、また、背信的行為があったと評価されることにより、退職金の減額が許される場合もあり得ると考えられる。
3 これを本件について見るに、原被告間において退職後の競業を禁止する旨の特約があったことを窺わせる事情は認められず、かえって、原告本人、被告代表者本人によれば、丸山は、原告が退職後同業他社に就職することを予測しながら、原告の退職に際し何らこれを禁ずるような発言をした形跡がないから、原告が競業避止義務を負う根拠はないといわなければならない。したがって、原告の競業行為が、その在職中の功労を減殺するほど背信的な手段によって行われた場合に限り、被告は、本件減額条項に基づき、原告の退職金を減額することができると解すべきである。
そこで、以下被告が指摘する原告の背信的行為について、順次検討する。
(一) まず、被告は、原告が、積極的に永長に働きかけて競合会社ミヤビを設立し、在職中に得た被告の取引先に対する納入価格に関する情報を持ち出して被告の取引先を奪ったと主張する。そして、証拠(略)及び弁論の全趣旨を総合すれば、原告は、退職後である平成一〇年二月ころ、永長から大阪市内で営業を行う方法等について相談を受けたこと、永長は、同年三月一〇日被告の競業会社であるミヤビを設立し、原告はその顧問に就任したこと、原告は、退職後である同年一月一五日過ぎころから、従来担当していた取引先(七、八〇社)に退職の挨拶をしたが、その際、取引先に対し、「同じ仕事をすることになれば、宜しくお願いします」との趣旨の挨拶をしたこと、原告は、ミヤビ設立後は、その顧問として、被告の取引先に対しミヤビとの取引を働きかけるなどの活動をしたこと、その結果、福岡公文堂、ボストン、三洋青工所は被告との取引を解消し、ミヤビと取引するようになったこと、原告は、ミヤビが有限会社アピックスに対し同年五月七日に提出した見積書を作成し、その際単価を被告の納入価格より若干安く設定したこと、同じくミヤビが株式会社西武写真に対し同年七月八日に提出した見積書を作成するにつき、その単価設定をアドバイスしたことがそれぞれ認められる。なお、山一コピー、近電写真、カンゼプリント、大阪複写及びマックについては、これらが被告との取引を解消したことに原告が関与したことを認めるに足りる証拠はない。
以上によれば、原告は、ミヤビの設立に関し何らかの関与をしたことが強く窺われるし、また、被告の取引先に対しミヤビとの取引を働きかけたり、ミヤビに協力して被告の納入価格より若干安く単価を設定した見積書を作成したりしたことが認められる。また、その結果福岡公文堂、ボストン及び三洋青工所の三社が被告との取引を解消したことが認められる。しかしながら、これらの行為は、被告を退職した原告が、その経済活動の自由の範囲内において行うことのできる通常の営業活動であると考えられ、原告の競業行為自体が禁止されない以上、何ら被告に対する背信的行為と評価しうるものではない。また、(書証略)及び被告代表者本人によれば、被告は七〇〇社の取引先を有しており、右三社との取引を失ったことによる売上の減少は、多い年で全体の売上の三パーセントにも満たないことが認められるから、原告の行為により被告が重大な損害を被ったとも認められない。
この点に関し、被告は、原告が被告の納入価格より若干安く単価を設定した見積書を作成することができたのは、被告から情報を持ち出したからであると主張するが、かかる事実を認めるに足りる証拠はなく、原告は、自らが把握していた被告の納入価格に基づき、右見積書を作成したものと考えられる。そして、納入価格に関する情報は、従業員は在職中に当然に把握することができるものなのであるから、競業行為そのものが禁止されない以上、退職した従業員が、知識として有する右情報を利用して有利に営業活動を行うことも、原則として禁止されるものではないというべきである。
(二) 次に、被告は、原告がオストリッチに働きかけ、同社よりミヤビが仕入れることができるよう画策した旨主張する。しかしながら、(書証略)、原告本人及び被告代表者本人によれば、オストリッチはもともと原告と同社の大阪営業所長との個人的な関係によって被告と取引を開始するに至った取引先であったため、原告が被告を退職したことにより、同社の独自の判断で被告との取引を解消した事が認められ、かかる経緯に鑑みれば、原告がオストリッチに対し何らかの働きかけをしたとしても、これが被告に対する背信的な行為となるものではないというべきである。
(三) さらに、被告は、原告がミヤビに入社させるため、塩田、山本及び湯川に働きかけ、同人らを退社させた旨主張する。しかしながら、かかる事実を認めるに足りる証拠はなく、被告代表者本人によれば、原告の働きかけがあったというのは被告の推測に過ぎないことが明らかである。
4 以上によれば、被告が指摘する原告の行為は、いずれも被告に対しその在職中の功労を減殺するほど背信的なものであるとは認められないから、被告は、退職金の残額二〇三万三二四〇円の支払を拒絶することは許されない。
二 争点2について
1 退職強要について
証拠(略)によれば、原告は、平成七年二月以降、週に三回の透析のため、火曜日及び木曜日の午後は欠勤せざるを得ない状況が続いたこと、このような原告の勤務状況を見た丸山は、平成九年八月ころ、原告に対し、給料を減額せざるを得ないこと、年末までに退職する場合には、現在の給料を前提とした退職金を支払うこと等を告げたこと、これを聞いた原告は、被告に期待されていないと感じ、退職を決意したことが認められる。以上によれば、丸山の言動は原告に対し退職を強要したとまではいえないし、原告が退職を決意したのは、あくまで自発的な意思によるものであったというべきであるから、原告の退職をめぐる経緯において被告に不法行為があったとは認められない。
2 退職金不払について
前記のとおり、被告は原告に対し退職金の残額の支払を拒絶することはできないというべきであるが、退職金の不払自体は債務不履行を構成するにとどまり、それが直ちに不法行為となるものではない。そして、被告が退職金の残額の支払を拒絶したのは、原告の競業行為が退職金の支払を拒絶する理由となるとの被告の独自の解釈に基づくもので、単に原告に対する嫌がらせや不当な目的のためにしたものとまでは認められないから、右不払は、被告に、債務不履行責任の他に不法行為責任を生じさせるものではないというべきである。
3 弁護士費用について
以上のとおり、被告に不法行為は成立しないから、慰謝料の請求は理由がない。そして、弁護士費用は、被告の債務不履行と相当因果関係のある損害とは認められない。
三 結論
以上の次第で、原告の請求は、被告に対し、退職金の残額である二〇三万三二四〇円及びこれに対する約定の弁済期である平成一〇年四月末日の翌日である同年五月一日からの遅延損害金の支払を求める部分に限り理由があるから認容し、その余は棄却する。
(裁判官 谷口安史)
別紙(略)